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原始時代仁科三湖の恵み
大町市には、「仁科三湖」とよばれる青木湖、中綱湖、木崎湖の3つの湖があります。これらの湖は、太古からたくさんの「恵み」を与えてくれました。
「北アルプスの鏡」とよばれる青木湖のほとりでは、今からおよそ1万5,000年前の旧石器時代から人々が生活していました。
また、木崎湖のほとりには、5,000年以上前の縄文時代中期に日本海側から運ばれたヒスイや滑石を加工して耳飾りや腕輪をつくる工房がありました。 -
古代農具川流域から始まった稲作
北アルプスの水源から流れ出た河川は、扇状地を作りながら流れ下り、流域には広大な原野が広がっていました。弥生時代になると木崎湖から流れ出る農具川や、段丘上の沢水を利用しながら稲や麻の栽培が始まり、やがて現在の大町市域は「村上郷(むらかみのさと)」と呼ばれるようになりました。今から2000年以上前のことです。
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平安時代~鎌倉時代仁科氏による段丘上や扇状地の開発
やがて、人々の住居は、湿地帯である農具川流域から水はけのよい扇状地の末端や段丘上へと移っていきました。社南部には、伊勢神宮の荘園である仁科厨(にしなみくりや)が設けられました。荘園の管理を任された仁科氏は、居谷里(いやり)の湧水や農具川から導水して社北部の開発を進めました。やがて、農具川西岸にも水を引き入れて大町や平地区の開発が進み、これらの土地を皇室に寄進して仁科荘(にしなのしょう)が成立しました。大町へ水が流入する大切な位置には、開発を守る「水分神(みくまりのかみ)」として、若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)が祀られました。この頃、常盤地区では、高瀬川の砂鉄を利用した鉄器の生産も行われました。
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室町時代町ができ、人が住み、水が引かれる
仁科氏によって都市計画が進められ、現在の大町市街地の骨格が形成されました。京都などの例にならい千国道(後の千国街道)に沿って短冊形の「町割り」を行い、町家の裏側には飲料水や生活用水として鹿島川の清浄な水を引き入れ、表には町川が流れていました。仁科氏の館(やかた)周辺には御所堰が引かれ、周辺の村落では北荒沢や越荒沢などの水路が整備されました。街道に沿った市街地では、八日町や九日町などで定期的に「市」が開かれ、定住人口も増加ました。
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江戸時代水争いと新しい用水堰の開発
江戸時代になると農業技術が進歩し、新田開発が盛んになりました。しかし、鹿島川から引かれている用水堰や農具川から取水できる水量は限られているために、上流村と下流村で水争いが頻発しました。このため、里山を掘り割って篭川から大町新堰を引き入れ、流末を町川に繋ぎ、原野や山林を切り開いてたくさんの新田が誕生しました。
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明治〜大正時代飲用水の汚染と水源の開発
市街地の飲料水の利用について、清浄を保つために申し合わせや規則などをつくりましたが、定住人口が増加すると生活排水などによって町裏の呑堰や町川の水は次第に汚れていきました。
大町市街地では、飲用水を改良するために、井戸の掘削も試みましたが、なかなか水脈を見つけることができませんでした。このため居谷里水源から導水する計画が立てられ、水利権をもつ社村の承諾を得て1924年に、市街地へ水道が引かれました。共同栓などにより清潔な飲料水を多くの住民が利用できるようになりました。高瀬川の電源開発、国産アルミニウムの誕生
明治時代後半の1903年には、安曇電機(株)が市内への送電事業を始め、電力需要の増加に伴って高瀬川流域での水力による電源開発が始まりました。1921年には第一発電所が完成し、引き続いて上流部に5箇所の水力発電所が建設されました。
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昭和時代水がもたらした産業振興
1933年、大町に昭和アルミ工業所(後に昭和電工株式会社大町工場と改称)が設立されて翌1934年には、国産アルミニウム第1号が誕生し、高瀬川の大出地籍から取水して下流域の農業用水を配分し、残水より常盤と広津に発電所を設ける計画が始まりました。この事業は、昭和電工に引き継がれ、大町の産業振興と近代化に大きな役割を果たしました。
第二次世界大戦が終わると長野県では、食糧増産と電源開発を組み合わせた総合開発事業を計画し、大町では、1951年から昭和電工が中心となって事業を推進しました。鹿島川源流から取水して青木湖で発電し、青木湖底の21mから再取水して小熊山を貫通し、15か所水門で平から大町へ農業用水を供給した残水を高瀬川大出の取水所で繋ぎ、常盤と広津の発電所へ結ぶ大工事でした。この事業は、多くの雇用や消費の増加をもたらし、100ヘクタール以上の水田が造成され、いくつもの新しい集落が誕生しました。大町市の誕生と経済成長
工事が完成した1954年、町村合併によって大町市が誕生しました。それまで町村ごとに運営されていた水道が整理統合され、市内全域に安定した水道水が供給できるようになりました。
また、1956年からは黒部ダムの建設工事に伴い、雇用や消費が拡大、大町市の経済成長に大きな効果をもたらしました。 -
豊かな水を次世代へ
このように、有史以来、豊かな水とともに暮らしを営み、水を巡らせることで、文化を育み、産業を興してきた信濃大町の人々。近年は、農業や産業に利用するだけでなく、水そのものの価値と魅力が注目されるようになっています。この豊かで清らかな水を守り、活かし、継いでいく人々。
信濃大町の水と人の歴史は次世代、そしてまた次の世代へと続いていきます。
大町市と水の歴史
北アルプスの麓に位置し、豊かな自然に囲まれた大町市。
大町の歴史を語るうえで欠かすことができないのが、
大町の宝、豊かな“水”の存在です。
北アルプスの雪解け水、美しい渓流、仁科三湖。
大地を潤し、暮らしを育み
“水”と共に発展してきた大町市。
大町の“水”を知ることは、大町の歴史を知ること。
豊かな自然の恵みと先人たちが育んできた
大町の“水”の歴史を紐解く旅へーーーーー。
中心市街地と水の関わり
水とともに人々が暮らし、町が繁栄してきた大町市。
大町市の発展に欠かせないのが現在の中心市街地に流れる“水”の存在です。
さかのぼること江戸時代。
現在の中心市街地は、糸魚川街道の宿場町として栄え、
街道中央に「町川」と呼ばれる大きな堰(せぎ〈水路〉)が流れ、
人々の生活を支えていました。
町の発展や人口増加にともなって、
街道と並行した東西の屋敷割り(現在でいう敷地のこと)の間に、
町川より小規模の「呑堰(のみせぎ)」が整備され、
飲料水や生活用水として利用されるようになりました。
明治20年に道の中央に流れている町川は埋め立てられ、
町川の水の通りは道の左右に分けられ、
道の下を流れるようになりました。
そして現在でも道の下を勢いよく流れる様子を見ることができます。
南北に流れる呑堰や、さらにそこから枝分かれした水の流れは、
敷地の中を流れたり、風景の一部になったり、現在でも中心市街地の景観を形づくっています。
今も残る水の通り道
大町の中心市街地を歩いてみると
どこからともなく水が流れる音が聞こえてきます。
歴史を重ね、形を変えた「堰」は
今でも中心市街地に息づき
当時の風景を思い出させてくれます。
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若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)
人々の繁栄を見守る“水の神様”
安曇一帯を治めた仁科氏が、熊野那智大社にて祀られている若一王子を勧請した「若一王子神社」。神社が鎮座するのは、農具川から水を引きこんだ堰と鹿島川から水を引き込んだ堰(町川)が集まった水の要所。水が集まる大切な場所を守る神社でもあり、水の分配を司り、土地の繁栄を祈願する「水分神(みくまりのかみ)」としても親しまれています。
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俵屋飯店(たわらやはんてん)
お店の中を流れる用水路
中心市街地を流れる水の通り道の中で、知る人ぞ知る新名所になりつつあるのが、中心市街地に古くからある「俵屋飯店」です。名物の餃子やラーメンを求め連日多くの人でにぎわう人気の中華料理店で、2019年に店舗を改装。それに伴い、用水路の流れを店内からも見ることができるようになりました。気になる方はぜひお店で確かめてみてください。
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東の呑堰(ひがしののみせぎ)
街道と並行して流れていた
呑堰の名残「東の呑堰」は、農具川に由来する堰。「八日町ポケットパーク」の駐車場では、かつての宿場町東側を流れる呑堰を見ることができます。街道と宿場の形態がこの八日町で鍵の手となって南北方向から東に折れるのと同じく、「東の呑堰」もまた東、さらに五日町で再び南に折れ、屋敷割りの裏を流れています。
大町市内で見られる水スポット
街を歩くと常に水の流れる音が聞こえ、大町と水の関係の深さがわかります。
何気なく歩いている道には、水の通り道がたくさん。
中心市街地の水スポットを探してみませんか?
水と人々の営みが息づく
現在の町並み
近世に宿場町として発展してきた
大町市の中心市街地。
そして現在に受け継がれてきた町並みには、
さまざまな時代の歴史の痕跡が残されています。
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平林家住宅/塩の道ちょうじや(ひらばやしけじゅうたく/しおのみちちょうじや)
大町市最初の国登録有形文化財で塩問屋を営んだ平林家の旧住宅。大町においてはじめての土蔵造りの町家で、明治23年(1890年)建設当時の姿を残した建物を見学することができ(有料)、塩の道に関する資料や道具などが展示されています。
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道しるべ・庚申塔(みちしるべ・こうしんとう)
かつて旅人へ道を案内するため、十字路や街道の分岐部分に方向や距離を示した道しるべを立てていました。この道しるべには「右 善光寺道」「左 越後道(糸魚川街道)」と刻まれ、庚申塔の役割も兼ねていました。
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弾誓寺(たんせいじ)
「弾誓寺」は中心市街地東南の段丘にあった「浄福寺」が前身になっています。観音堂には平安時代中期作の県宝「木造観音菩薩立像」が祀られています(公開していません)。境内には若一王子神社境内の西側を北から南へ流れる堰が弾誓寺堰となって流れます。
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栗林家住宅/創舎わちがい(くりばやしけじゅうたく/そうしゃわちがい)
国登録有形文化財で松本藩大町組大庄屋を務めた栗林家の旧住宅。屋敷部分は江戸時代末期の建築、店舗部分は明治時代前期建て替えのもので、広い間口に開かれた門塀から見える前庭など大町宿庄屋層の建物の歴史的景観を伝えます。
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大町道路元標(おおまちどうろげんぴょう)
大正時代に制定された旧道路法により、各市町村に一つ設置された標柱で「北安曇郡大町道路元標」と刻まれています。西側の通りでは弾誓寺堰が西の呑堰となる様子を見ることもできます。
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男清水・女清水(おとこみず・おんなみず)
中心市街地の上水道は大正末期に整備されました。中央通りを軸に、東側は居谷里湧水、西側は上白沢湧水を水源として利用しています。近年の創作民話「男清水・女清水」の物語にちなみ、市内各所に無料で給水できるスポットが設置されています。