現在、大町市内で製菓業を営んでいるお店は10軒。最盛期には30軒以上ものお菓子屋さんがあったといいます。その理由は定かではありませんが、昭和初期から工業立地が始まり、後に黒部ダム建設工事などでも外部から多くの人々が流入したことが、一因と考えられています。人口が増えると、お茶を飲む人が増え、お茶請けやお土産物として、お菓子を買い求める人が増えたというわけです。
そんな大町で上白沢水源からの「男清水(おとこみず)」※を用いて和菓子をつくっている二軒の老舗を取材しました。

美しい水が上質なあんをつくる

魚屋さんがつけるようなビニールの長前掛けとゴム長靴が様になる柴田裕久さん。
明治40年(1907)頃創業の御菓子司柴田の3代目。この道30年のベテラン菓子職人です。

この日は、「塩の道」という大町銘菓の塩羊羹に使うあんを仕込んでいるところでした。
一晩水に浸した北海道産の小豆9kg。まず、95度まで熱した蒸気釜の中で40分程煮ます。その後、煮上がった小豆に水を注いでミルのような攪拌機にかけ、粉砕し皮とゴ(餡粒子)に分け、ゴは不純物を取る「水さらし」を2回行います。水さらしで使う水の量はドラム缶2本分(約400ℓ)にも及びます。

水さらしが終わって、木綿のこし袋に入れてプレス(圧搾機)にかけ「水切り」をしている間に、釜や攪拌機のミルや本体を洗浄する「洗い」の作業に取り掛かります。
使っている水は、水道水。北アルプスの雪解け水を含む上白沢水源からの「男清水」です。

「ここはやっぱり、水がいいから、小豆も美味しく炊けますね。他地域のお菓子屋さんでは、浄水器を付け、わざわざ湧き水をタンクに汲みに行って使っているという話も聞きます」

柴田さんは、どの工程でも、ずっと素手で水に触れています。
「冷たいですよ~、冬はこういうところが切れて痛いです」と言いながらも、
冷たい素振りも見せず、流れるような作業に、目が釘付けになりました。

作業開始から約3時間後。こし袋から出てきたのが、生あんです。白ザラ糖・水飴を加えて羊羹用の餡が即日炊き上げられます。翌日には、この餡を使い、水・寒天・和三盆糖・塩・水飴を加えて炊き上げけられ、羊羹の形に成形されます。

「塩の道」誕生秘話

柴田の看板商品「塩の道」は、先代が“お土産としてポケットに入れて持っていけるくらいのものを作りたい”ということで試行錯誤してできた羊羹。羊羹といえば、一竿が20cm程度と決まっていた時代、半分の10cmの大きさにしたことは、画期的な発案でした。
販売当初はなかなか売れず、当時の塩の道博物館の館長と相談し、博物館でも販売するようになりました。

こうした先代の努力は、塩の道博物館(現在のちょうじや)訪れる観光客の心をとらえたばかりでなく、昭和52年に行われた第19回全国菓子大博覧会で審査総長賞を受賞。大町銘菓として不動の地位を築きました。
「パッケージの字や文章も、全部先代が書いたものです。おじいさんは、どら焼きとか、おまんじゅうとか、昔ながらのお菓子をつくる職人でしたが、父はつくることを楽しんで、いろいろやっていましたね」

そう言いながら柴田さんが見せてくださったのは、雷鳥を象った焼きまんじゅうの木型。先代は、この木型も手づくりしていたというから驚きです。

受け継がれた創造力

最後に、柴田さんが、もう一つ、木型を見せてくれました。

「これは、先代が彫り師に頼んで作ってもらった落雁用の木型です。よく見ると、大町の観光地がいろいろ彫られていて、きれいでしょう。これをまた使いたいなぁって思ってるんですけど、新しいものをつくるのは非常に難しいです」
と、はにかみながらも、既に何度か試作もしていると教えてくれました。
一度は使われなくなった木型に、3代目の裕久さんが新たな命を吹き込もうとする瞬間。時を超えた親子合作の和菓子が店頭に並ぶ日が楽しみです。

※「男清水」とは
〜女清水と男清水の物語〜

「その昔、町の中央を南北に割って走る通りの東西で、人々の飲む水が違っていて、東側は東山の居谷里という池の湧水を、西側は北アルプス白沢の湧水を使っていました。ところが東の集落では女の子ばかりが、また、西の集落では男の子ばかりが生まれてくるのです。いつしか人々は、居谷里の水を女清水(おんなみず)、白沢の水を男清水(おとこみず)と呼ぶようになったといいます。」<大町市ホームページより抜粋>

お茶席を引き立てる和菓子を。

次に訪れたのは、喜久龍(きくりゅう)。店内に一歩足を踏み入れてまず驚いたのは、ショーケースの中のお菓子の品数の多さ。練り切りの和菓子をはじめ、伝統的な最中、どら焼き、各種おまんじゅう、餅菓子、さらには、注文を受けてからでき立てを出してくれるというお団子もあります。

「品数は30種類ぐらい。ほぼ全部うちでつくっています」
そう教えてくれたのは、喜久龍の4代目 須澤信介さん(40歳)。後継者不足が課題の和菓子業界、ひいては大町の商店街の中で、貴重な若旦那です。

喜久龍の創業は、明治37年(1904年)。信介さんの曽祖父に当たる久男氏が北安曇郡池田町に「須沢屋菓子店」を開業。その後、昭和25年(1950年)に祖父・達雄氏が現在地で「須沢屋菓子店支店喜久龍」の営業を始めました。「喜久龍」の名は、久男氏、達雄氏、そして、達雄氏の兄で須沢屋菓子店の二代目・喜八郎氏の名前からそれぞれ一文字を取って名付けられた屋号だそうです。
現在、喜久龍では、信介さんと、父の守信さん、お兄さんと三人体制でお菓子をつくっています。

「大町は水がおいしいから、茶道をやっている方が多く、お茶の先生もよく見えますね」
信介さんは、お茶会のテーマや季節に応じ、お茶の先生の要望を汲みながら主菓子をつくることもしばしば。練り切りの和菓子などは、花びらの微妙な色合いを試行錯誤しながら考えたり、新商品を考案するのもお得意です。

例えば、北アルプス鹿島槍ヶ岳のカクネ里氷河にちなんで作った「氷河のかけら」という商品は、お茶の先生からの「主菓子だけでなくお干菓子も作って」という要望が発端だったといいます。
北アルプスからの男清水を使った寒天ゼリーの周りを乾燥し、薄氷が割れるようなシャリっとした食感に仕上げた「氷河のかけら」。お茶の先生方に喜ばれたそのお菓子は、平成29年度に行われた信濃大町ブランド特産品開発コンテストの和洋菓子部門で、準グランプリに輝きました。

忘れられない味

和菓子をつくるだけでなく、食べるのも好きで、東京などの名店を訪れては、その味を吟味していたという信介さん。和菓子職人になろうとしたきっかけを尋ねると、意外な答えが返ってきました。
「宮崎の大学に行っていた頃、向こうで食べたお菓子が印象的で、菓子職人という選択肢もあるなと思ったんです」

そのお菓子とは、「なんじゃこら大福」。宮崎の有名菓子店で1日1,000個売れるという人気商品でした。
宮崎大学教育学部で中・高の理科の教員免許を取った信介さんでしたが、卒業後、一旦は実家に戻り、お父さんから和菓子づくりのいろはを学びます。そして、宮崎で出会った奥さんと結婚。その後、再び大町を離れ、運命的な出会いをした宮崎の製菓店に就職。7年間、菓子職人としてのキャリアを積みました。

次世代にバトンを渡すために。

「菓子職人として一通りのことができるようになったので、大町に帰ってきました」と振り返る信介さん。
その後、若い人にも食べやすいお菓子をと「生どら」(生クリームに小倉餡や大町産のブルーベリーなどを練りこんだ冷凍タイプのどら焼き)を新開発。メディアの取材も受け、すっかり看板商品として定着しました。
また、お餅にさつまいもを練り込んで餡をくるみ、きな粉をまぶした「唐芋団子」は、もとは宮崎県の家庭で昔から食べられてきたお菓子。信介さんの宮崎での経験がここにも生かされています。

家庭では4児の父である信介さん。中学3年生の長男が、将来は和菓子をつくりたいと言っていると話しながら、その表情がほころびました。
「一番大変なことは、続けていくことだと思います。“次の代に、いい形でバトンを渡せるように、がんばらないと”という気持ちでやっています。」
今後は、子供向けの和菓子づくり体験なども考えているそう。

故郷・大町での信介さんの挑戦は、まだ始まったばかり。息子さんにそのバトンが渡されるその日まで、走り続けます。

INFORMATION

名 称 御菓子司 柴田
住 所 大町市大町4084-2
電話番号 0261-22-0474
HP http://www15.plala.or.jp/okasi-shibata/
名 称 御菓子司 喜久龍
住 所 大町市大町3312
電話番号 0261-22-0183
HP http://www.kikuryu.co.jp/index.html
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